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和田守菊次郎の記憶術
和田守菊次郎は明治28年(1895年)に「和田守記憶法」という記憶術の本を出版します。彼は「代言人(現在の弁護士)」でしたが、記憶術の本を出版します。
和田守記憶法は、ファイネーグらの欧米の記憶術に似ています。
といいますか当時は記憶術が大ブームであり、欧米の本を翻訳し、それを各自の「オリジナルの記憶術」と称して本を出していた時代です。和田守菊次郎も、そうしたところがあったのでしょう。
日本では、和田守菊次郎が「和田守記憶法」の本を出す16年前に、つまり明治12年(1879年)に、日本で初めての記憶術本が出版されます。
その後、日本では数多くの記憶術本が出版され、「和田守記憶法」も、そうした記憶術ブームの中で発刊された書になります。
いい加減な記憶術ではなかった「和田守記憶法」
明治時代に日本で出版されていた記憶術本は、いい加減なものも多く、記憶術とは言えないものが多く出ていました。
しかし和田守記憶法は、そういったいい加減なものとは違い、本格的な記憶術に入れることができるものでした。そうはいっても、当時は記憶術ブームの下地があったため、和田守菊次郎の記憶法も受け入れられたと考えられます。
和田守菊次郎の記憶術は、当時の記憶術ブームの最後に出てきたアンカー的な「記憶術大全」としてのノウハウ書とも言えます。実際、和田守記憶法は、当時としては大著の記憶術本で総ページ数が440ページになり、しかも数多くの記憶術テクニックが掲載されていました。
和田守記憶法の中身
和田守記憶法は、
- 帳簿法
- 連環法
- 作文法
これらは名称こそ違っても「イメージ」と「場」を利用した古典的記憶術のテクニックになります。
とはいっても、現代の記憶術からみれば、発展途上的なテクニックとなっています。現代の記憶術のほうが技術的にも優れています。
また上記の基本技術のほかに
- 数字記憶法
- 外国語記憶法
- 演説記憶法
- 詩歌記憶法
- 姓名記憶法
- 地理学記憶法
- 歴史学記憶法
- 法津学記憶法
しかしこれらの方法は、全て基本的な記憶術のスキルを、それぞれの分野に活用したものになります。
渋沢栄一や嘉納治五郎も推薦していた和田守記憶法
和田守記憶法は、当時、かなりの反響を呼んだようです。
明治12年から起き始めた「記憶術ブーム」という流行と、彼の著書は大著であり中身が濃いこともあってか、当時の政界、財界人らも、和田守菊次郎の記憶術書へ推薦を寄せています。
たとえば経済界の重鎮の渋沢栄一、学習院大学院長の近衛篤磨、講道館の創始者の嘉納治五郎といった蒼々たる面々が推薦しています。また理学博士、医学博士らが謝辞を添えています。
こうした蒼々たる人が推薦・謝辞をしたのは、当時としては画期的に映ったからでしょう。
12年から出版された記憶術本の多くは、眉唾ものが多かった中で、和田守記憶法は、未熟な記憶術の部分があったとしても、欧米の記憶術を取り入れた大著となっています。
和田守菊次郎の宣伝の巧さもあったでしょうが、書籍自体はまずますなものだったことも、推薦や謝辞を取り付けたのではないでしょうか。
日本で初めて記憶術をビジネス化した和田守菊次郎
ところで和田守菊次郎は、本を出版する際、パフォーマンス性の高い宣伝を行っています。
当時の新聞である「万朝報」で「和田守氏の大発明」という宣伝を打って、帝国ホテルで大々的な記者会見と記憶術のパフォーマンスを行います。
今でいう宣伝活動やマーケティングですね。
けれどもこのような宣伝活動は、ペトゥルスやファイネーグも行っています。彼らも大道芸のように記憶術のパフォーマンスを行い、記憶術の効能を宣伝しています。和田守菊次郎も派手な演出と、高額な講座を開講します。
日本記憶学院を創設~高額だった
和田守のパフォーマンスは大変な反響を呼び、新聞には質問等が殺到したといいます。この反響を受けて、和田守菊次郎は「日本記憶学院」を創設します。
入会費は2円。現在の価格に換算すれば4万円になります。ちなみに2円という金額は、当時の東京大学の学費1ケ月分です。
しかし一回の質問の手紙に対して25銭(現在の価格で5千円)を取るなど、トタールの費用でいえば、金のかかる記憶術学院でした。
そんな日本記憶学院の会員は、5万人くらいにまで増えたようです。
和田守菊次郎は宮武外骨らから批判
このような和田守菊次郎に対して、当時の風刺家である宮武外骨は痛烈に批判をしています。
宮武特有の揚げ足を取る批判もあるにせよ、和田守菊次郎は高額な費用を取るビジネス色が強かったこと、彼自身に禁固歴があったこともあって、批判の矛先が向かいやすかったのではないかと思います。
記憶術は確かに効果のある方法です。和田守菊次郎は明治期における記憶術ブームに乗じた人物でありますが、彼の記憶術は未完成といいますか、現代記憶術から見れば稚拙なところがあったことは否定できません。