2006年全米記憶力チャンピオンのジョシュア・フォア

ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由

 

 

Memory Techniques with Joshua Foer - Martha Stewart

 

 

ジョシュア・フォア: 誰でもできる記憶術

ジョシュア・フォア: 誰でもできる記憶術

 

みなさん目を閉じて。

 

自分の家の玄関前に立っていると想像してください。ドアの色や素材をよく確かめて次に思い浮かべるのは自転車に乗った太ったヌーディストです。みんな全裸でレース中です。あなたの玄関に突進してきます。その映像を思い浮かべてください。懸命にペダルをこいで、汗だらけで、あっちこちにぶつかり、そのまま玄関に突っ込み、自転車が宙を舞い、タイヤがあなたをかすめ、スポークがヘンなところに着地。ドアに入りましょう。広間でしょうか。ホールでしょうか。とにかく入って差し込む光をよく見ましょう。光はクッキーモンスターを照らしています。クッキーモンスターは黄褐色の―しゃべる馬にまたがりあなたに手を振っています。青い毛が鼻をくすぐるのを実際に感じます。彼が口に放り込もうとしているオートミールレーズン・クッキーの匂いがします。横を通ってリビングへ行きましょう。ここでは目いっぱい想像力を使ってブリトニー・スピアーズを思い浮かべてください。大胆な露出でテーブルの上で踊りながら『ベイビー・ワン・モア・タイム』を歌っています。次はキッチンです。床は黄色いレンガの道になっていてオーブンから『オズの魔法使い』のドロシーと、ブリキ男と、かかしとライオンが出てきます。手をつないでスキップしながらまっすぐ向ってきます。

 

さあ目を開いて。

 

これからお話しするのは毎年ニューヨークで開かれる風変りな競技会についてです。全米記憶選手権といいます。数年前科学ライターとしてこの競技会を取材しました。私はサヴァン症候群患者のスーパーボウルみたいなものを期待していました。でも実際は男だらけで女性数名―年齢も清潔さもまちまちな集まりでした。

 

(笑)

 

参加者はたった一度見ただけで数百個のランダムな数字を記憶し、ものすごい数の初対面の人の名前を覚え、わずか数分で詩を丸ごと暗記し、シャッフルしたカードの順番を記憶する速さを競うのです。信じられませんでした。彼らは自然が生んだ怪物に違いない。

 

そこで参加者に話を聞きました。彼はエド・クックイングランドでも最高の記憶力の持ち主です。彼にこうたずねました。「エド自分がサヴァンだと気付いたのはいつ?」。するとエドはこう言いました。「僕はサヴァンじゃない、記憶力は普通だよ。競技会の参加者はみんな記憶力は人並みだって言うはずだよ。みんな訓練を積んで驚異的な記憶の離れ業をやっているのさ。ギリシャで2500年前に発明された古代のテクニックを使うんだ。キケロが演説を覚え、中世の学者たちが本を丸ごと暗記するために使ったのと同じテクニックだよ」。僕の反応は「なんで今まで知らなかったんだろう?」。

 

僕たちは競技会場の外にいました。エドはすごく優秀だけど、少し変わったイングランド人です。彼が言うのです。「君はアメリカのジャーナリストだろう?ブリトニー・スピアーズは知り合いかい?」「何?―いいや どうして?」「ブリトニーにシャッフルしたカードの順番を記憶する方法を教えたいんだ。それもアメリカのテレビでね。ブリトニーにできるなら誰でもできるという証明になる」

 

(笑)

 

だから僕は言いました。「ブリトニーじゃないけど、僕に教えてみないか?まず始めてみるべきだろう?」これが風変りな旅のはじまりでした。

 

翌年、多くの時間を割いて自分の記憶力を鍛えながら、記憶について調べ、どう機能しているか?時々機能しないのはなぜか?どのくらい可能性を秘めているか?を理解しようとしました。

 

たくさん面白い人に会いました。この人はE.P.記憶障害があって、おそらく世界でいちばん記憶力のない人です。そのため自分に記憶障害があることすら思い出せません。これはすごいことです。とても悲劇的な人物ですが、どの程度、記憶が我々を形作っているかを知る手がかりとなる存在です。

 

その対極にいるのがこの人、キム・ピークです。映画『レインマン』でダスティン・ホフマンが演じた人物のモデルです。ある日の午後、ソルトレイクシティーの公立図書館で、一緒に電話帳を暗記して過ごしました。とても面白かった。

 

(笑)

 

帰ってから記憶に関する文献を読みあさりました。2000年以上前の古典古代や、その後、中世にラテン語で書かれた文献です。いろいろ興味深いことを学びました。なかでも面白かったのは、かつては記憶力を訓練し、鍛え、高めることが、今ほど奇妙な事ではなかったということです。かつて人々は、記憶−−すなわち、心を強化することに精力を注ぎました。

 

数千年にわたり、我々は様々な技術を発明してきました。文字にはじまり、巻物―写本、印刷機、写真、コンピュータや、スマートフォンにいたるまでです。これらによって、記憶を外在化し、記憶という人間の基盤となる能力を外部に委ねることが、次第に簡単になってきました。技術は現代社会を支える一方で、我々自身にも変化をもたらしました。我々は文化的にも、おそらく、認知的にも変わりました。覚える必要がなくなり、記憶する方法を忘れてしまったようです。

 

記憶力を鍛え、高めるという考えに熱心な人々に会える―地上でほとんど最後の場所が、このユニークな記憶コンテストなのです。ただ珍しいものではありません。世界中で開かれていますから、私は興味がわいて彼らのやり方を、知りたくなりました。

 

数年前に、ロンドン大学の研究者が、記憶チャンピオンを研究対象に選びました。研究テーマは、彼らの脳が構造的、解剖学的に普通の脳とちがうのか?その答えは「ノー」でした。では我々より頭がいいのか?認知テストの結果―それほどでもないとわかりました。

 

ただ、記憶チャンピオンの脳と、普通の人の脳との間には、明らかな違いがありました。チャンピオンの脳をfMRIでスキャンし、その間に、数字や顔や雪の結晶を記憶してもらいました。すると普通の人と比較して彼らは、脳の違う部分を使っていたのです。特に彼らが使う部分は、空間記憶とナビゲーションに関わる部分のようです。なぜでしょう?ここから何がわかるでしょう?

 

スポーツとしての競技記憶は、まるで軍拡競争のようです。毎年より多く、より速く覚えるために、新しい方法を思いつく人があらわれ、みんながそれに追いつこうとします。

 

友人のベン・プリドモアは、3度世界チャンピオンになっています。机の上にはシャッフルされたカードが36組あります。ベン自身が開発し、彼だけがマスターした技を使い、1時間で暗記しようとしています。彼は同様のテクニックで、4,140個のランダムな2進数の正確な順序を、30分で覚えました。すごいでしょう?

 

競技会では、様々な記憶法が見られますが、そのテクニックはすべて心理学者が「精緻な符号化」と呼ぶ概念に集約されます。

 

この概念を見事に具体化しているのが、Baker/bakerパラドクスです。お見せしましょう。2人に同じ言葉を覚えてもらいます。あなたはベイカーという名前を覚えてください人の名前です。あなたはbakerつまりパン屋がいる場面を覚えてください。しばらく経ってからお二人にこうたずねます。「さっきのあの言葉覚えていますか?「さっきのあの言葉覚えていますか?何でした?」ベイカーという名前を教えられた人は、パン屋という職業を聞いた人に比べて、その言葉を思い出しにくかったのです。言葉は同じなのに記憶量が違う・・・変ですねどうなっているのでしょうか?

 

実はベイカーという名前はあまり意味をもっていません。この名前は頭の中にある他の記憶とまったくつながりがないのです。パン屋のbakerはどうでしょう?みんなパン屋を知っています。面白い形の白帽をかぶり手には小麦粉―仕事から帰るといい匂いがします。知り合いにパン屋がいるかもしれませんこの言葉を聞いた瞬間に連想する手がかりと結びつくので、言葉を再び取り出すことが容易になります。記憶コンテストで使われる技術―そして、日常生活でよりよく覚えるためのコツは、ベイカーという名前をパン屋のbakerに変換する方法を知ることにほかなりません。文脈や意義や内容をもたない情報を取り上げて、頭の中にある物事との関連から、意味あるものへと変換する方法を知ることなのです。

 

これをさらに複雑にしたテクニックが、2500年前の古代ギリシャにありました。「記憶の宮殿」という名で知られます。この技の誕生にまつわる話があります。詩人のシモニデスは、祝宴に参加していました。お雇い詩人だったのです。当時、最高のパーティをやろうと思ったら、DJじゃなく、詩人を雇ったのです。シモニデスは、詩を暗唱した後、部屋を出ます。その瞬間、宴会場が崩壊して、中にいた全員が死にます。それだけではなく、損傷がひどくて誰が誰だか分かりません。誰が中にいてどこに座っていたかもわからない。これではきちんと埋葬できない。悲劇が悲劇を呼びます。戸外にいたシモニデスは、惨事の唯一の生き残りです。彼は目を閉じるとあることに気づきます。心の目で客がそれぞれ、どこに座っていたかが見えるのです。彼は犠牲者の親類の手をとり、がれきの中最愛の人の元へと導きます。

 

この時シモニデスが気づいたことは、誰もがおそらく直感的にわかっていることです。つまり我々は名前や電話番号や同僚からの指示を、まるごと覚えるのは苦手だが、視覚的、空間的な記憶には優れているのです。もし私がみなさんに、今のシモニデスの話の最初の10語を思い出して言ってもらおうとしても、かなり難しいでしょう。でも、玄関ホールでしゃべる馬に乗っているのが誰だったかたずねたら、きっと思い出せるはずです。きっと思い出せるはずです。

 

記憶の宮殿の背後にある発想はこうです。頭の中で大きな建物を想像して、その中に覚えたいもののイメージを配置します。イメージが異常で、不気味で、奇怪で、おかしく、卑猥で、不快なものであるほど、忘れにくくなります。この知識は2000年以上前の記憶に関するラテン語の文献までさかのぼります。

 

どういう仕組みでしょうか?たとえばあなたが講演のために、TEDのメイン・ステージに、招かれたとしましょう。そして記憶をたよりに話そうとします。2000年前にキケロが、TEDxRomeに招かれていたら、使ったであろう方法です。まずあなたは自宅の玄関にいる自分を想像します。そして異様で馬鹿げた忘れにくいイメージを思い浮かべます。話の出だしは奇妙な競技会のことだと思い出せるようなイメージです。次にあなたは家に入り馬のミスター・エドに乗った、クッキーモンスターのイメージを目にします。このイメージから、次にエド・クックを紹介することを思い出します。さらにブリトニー・スピアーズのイメージから面白いエピソードを思い出します。キッチンに入って、4つ目の話題は1年にわたる奇妙な旅のことです。これはドロシー達が、思い出すのを手伝ってくれます。

 

これがローマの雄弁家たちが演説を記憶した方法です。一字一句覚えるのは、うまくいかないので、話題ごとに記憶します。トピック・センテンスという言葉は、ギリシャ語で「場所」という意味の"topos"が語源です。これは雄弁術や修辞法について空間を表す言葉を使って考えた名残です。「はじめに」という意味の"inthefirstplace"は記憶の宮殿の最初の場所のことです。

 

この技術はとても魅力的で、僕はのめり込みました。さらにいくつかの記憶コンテストに出かけ、競技記憶というサブカルチャーについて、少し長いものを書く気になりました。ただ問題がありました。記憶コンテストは、イベントとしては考えられないほど退屈なのです。大勢の人が学力テストを受検しているみたいです。最高に劇的な場面でも、誰かがこめかみをもみ始める程度です。僕はジャーナリストですから、ネタが必要です。頭の中ですごいことが起きているのはわかるのですが、それを見ることはできません。

 

だからこう考えました。これを書くなら少し彼らの立場に立たなければ、そこで毎朝15分から20分―新聞を読む前に暗記を始めました。詩の時もあれば、フリー・マーケットで買った卒業アルバムの名簿の時もありました。これが何と驚くほど面白いんです。まったく予想していませんでした。なぜ楽しいかというと、単なる記憶の訓練ではないからです。この訓練はくだらなくて、ワイセツで、笑えて、できれば忘れにくいイメージを作り、思い浮かべる力をつけるためのものなんです。僕はのめり込みました。

 

僕が記憶競技用の訓練キットをつけているところです。これは、ヘッドフォン―それと完全に遮蔽し小さな穴だけあけた安全ゴーグルです。競技として記憶する我々にとって最大の敵は気が散ることですから。

 

結局1年前に取材した。その競技会に戻ってきました。自分としては、参加型ジャーナリズムの実験のつもりでいました。これまでの調査を締めくくる素敵なエピローグだと思っていたのです。ただ厄介なことに、実験は予想外の結果に終わりました。僕が優勝してしまったのです。そんなはずではなかったのですが。

 

(拍手)

 

確かにスピーチや、電話番号や、買い物リストを覚えられるのは便利ですが、たいしたことではありません。これは単なる技です。この技がうまくいくのは、脳の働きの基本に従っているからです。心の仕組みを少し考えて役立てるのに、記憶の宮殿を造ったり、カードを何セットも覚える必要はありません。

 

よく記憶力がいいのは、生まれつきの才能だと言いますが、そうではありません。記憶力は学習のたまものです。まずはじめに、注意を向けることで覚えます。没頭しているときに記憶します。我々が記憶するのは、ある情報や経験に意味があるのはなぜか?なぜ重要なのか?なぜ鮮やかなのかを理解できた時です。そして心に浮かぶ物事との関わりの中で、意味あるものに変換できるとき、すなわちベイカーさんをパン屋さんに変換できた時に覚えるのです。

 

記憶の宮殿や記憶術は近道にすぎません。いや近道ですらありません。技が機能するのはそのために努力するからです。技に必要なのは普段はしないような深い処理や意識の集中です。でも近道はありません。これが物事が記憶に残る仕組みなのです。

 

みなさんに伝えたいことは、自分の記憶障害すら忘れていたE.P.が僕に教えてくれたこと―すなわち我々の人生は、我々の人生は、記憶そのものだという考え方です。スマートフォンに熱中したり、自分と会話している目の前の人に関心を寄せなかったり、怠けて深く考えようとしないことで、それでなくても短い人生をどれほど無駄にしているでしょう?どれほど無駄にしているでしょう?

 

僕が経験から学んだことは、誰もが秘められた膨大な記憶力をもっているということです。でも記憶に残る人生を送りたいなら、覚えることの大切さを忘れない人間になるべきです。

 

ありがとうございました

 

(拍手)